デザインは直感と構想の編集

社会の動きや、時代の空気、生活者の潜在的なニーズ、テクノロジーの未来など、あらゆる情報を俯瞰しながら「こうなんじゃないの」「こう動くよね」という直感的感覚とともに、構想を組み立てていく。このプロセスこそ、私が考えるデザイナーならではの職能であり、果たすべき役割が凝縮されている。物事の本質がこの辺にあるということが見えてきたあとに、多様な要素を編集することがデザインを描くということ。
そして、自分にとってプロデュースする作業というのは、自分の穴埋めとして、自分と異なる才能や個性をいかに束ね、どんなカタチで仕立て社会にそして生活者に向けてどのように発信していくのかということ。
直感と構想を繰り返しながら、未来の可能性を目に見えるカタチとしてビジュアライズすることこそがデザインの根幹であり、目的だと思う。

美意識とデザイン

美はそれ自体に目的を持たないが、デザインはある目的のもとに生み出される機能です。優れたデザインは高い機能性を持ち、そして美しい。
したがって美はそれ自体で独立しているが、デザインは優れていない限りは美しくない。美しくないデザインは世の中に氾濫している、それはそのデザインが目的達成へ研ぎ澄まされていないからだ。だからデザインは絶えず美しさに従う関係でなければならないと常に思っています。

デザインは美しさの発見

美しさは、デザインされたそのものにあるというより、美しさを見出すその人自身のなかにあり、だからこそ作る側にとっても、見る側にとっても「美しさの発見」はいつでも「自己発見」なのではないか。そしてより多くの「美しさ」を発見するためには、ただカタチあるものだけでなく、カタチのない不確かで、移ろいやすく、儚い存在に対して鋭敏で開かれた心持ちが大切なことだと気づきました。

デザインの逆説

コミュニケーションにおいて、デザインはメッセージと捉えている人が多いけど、SEED のデザインは主張ではなく受容。生活者の抱くあらゆるイマジネーションやイメージを受容する器のようなもの。どれだけ上手に伝えられるかではなく、自分事としてどれだけたくさんのイメージを抱かせられたかが、そのデザインの成果だと思うから。生活者の意志に寄り添い続けるべく思考し続ける。いままでも、そしてこれからも。

思いだけでどこまでも

言葉でコミュニケーションを取ろうとしても伝わらない。思いでコミュニケーションを取らなきゃと。伝わるのは言葉ではなく、思いなのだ。「いま何を思っている?」それだけを拾い集めて、膨らまして延して、繋いできた。技術や知識や、知恵までも、思うことから引き出された。だから、思うことを止めない。だから思い続けていく。思いは、結局は現実になる。私はいつもやさしく思い続けたい。

やさしさって何んだろう

やさしくなりたい、やさしくなろう、もっともっと、やさしくなれ。
うまくいかないととかく尖ってしまいがちなので自分に言い聞かせる。
ところで、やさしくなるって、どんなこと?
言葉では通じているはずなのに描いていることが伝わっていない。よくあること。双方のイメージを一致させるのもデザインをつくる上で大事な部分。私が思う「やさしさ」とは「相手のことをそのままありのままに認めること」。尖ると相手を否定してしまう。
もっともっとやさしくなろう。思いやりデザイン会社やさしいSEED。
もっともっとやさしくなろう「ありがとう」が飛び交う会社になろう。

夢見る大人たちへ

シンプルに、ただシンプルに、ただただシンプルに。ゆるゆると選択肢を描こう。いくつでも描ける限りの選択肢を描こう。その選択肢の中から「たった一つ」に絞り込もう。「たった一つ」以外のすべてをゴミ箱に捨てよう。そうすれば決断できる。もう迷わない。
なりたい自分の姿を描こう。その姿にそっくりな言葉や行動、考え方を実践しよう。実践してみて「足りないものは何か」と気づいたら、すぐに改めよう足りないものを探してはすぐに埋めていく。すぐに改める。
すぐにとはたったいまその瞬間。すぐに改めないと絶対に改まらない。

どんどん動き出す、描いた夢がループとなってどんどん上昇していく。